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TOYOTA 2000GT SCCA 1968

概要


2000GTの発表から3年後の1968年トヨタは約500,000ドルの投資を行いシェルビー・アメリカンと提携、当時北米で最も人気の高かったプロダクションレースSCCAシリーズに参戦する。

その目論見は北米での2000GTの販売を見込んでいたのか、それともレース活動により「TOYOTA」のイメージアップを図り今後の輸出拡大の足掛かりにしようとしたのか
自分は後者だと思う。


TOYOTA 2000GT SCCA 1968


参考として
トヨタ自動車75年史の第2部 『自動車事業の基盤確立』第5節 国内販売体制の拡充と海外市場の開拓、第5項 米国への輸出
のなかで
「1960年代後半に入ると、日本車は積極的に海外市場に輸出され、世界各国でその姿が見られるようになった。
トヨタもまた、それまで着実に築いてきた海外拠点を中心に、カローラ、セリカ、コロナなどの乗用車、ハイラックスなどの商用車を中心に輸出台数を伸ばしていった。
輸出台数が1966年に10万台を突破して以来、1968年には28万台、1970年には48万台と順調な伸びを示した。
仕向地別には従来と異なり米国、ヨーロッパなど自動車先進国への輸出が伸び、トヨタ車の輸出台数の半数を占めるに至った。」
とある。

TOYOTA 2000GT SCCA 1968


まさに北米における「TOYOTA」のレーシングプログラム活動の時期と一致する。
日本での発売価格は高額な印象を受けるが同等のスペックの911Sやジャガーに比べれば半値以下の車両を400台弱販売したところでたかが知れている。
それに比べればカローラ、セリカ、コロナをバンバン輸出した方がトヨタらしい訳だ。



TOYOTA 2000GT SCCA 1968


当時の状況として2000GTはスタイリング、スペック共に日本国内でのスポーツカーとしての最高のポジションは十分に勝ち得たと思われる。

2000GTは生産性と価格を比較すると売れれば売れる程、利益が減じてしまう存在であり300台も作れば日本国内での「TOYOTA」のイメージアップは成功したと言って良いだろう。

そして次なる市場である北米に3台の2000GTが送られた



3台の2000GT


TOYOTA 2000GT SCCA 1968



シェルビー・アメリカンに送られた2000GTはロニー・バックナムにより主に足回りの熟成がリバーサイドで行われた。

3台のシャシーナンバーは
MF10-10001
Driven by Dave Jordan 使用ゼッケン No.3、No.23
MF10-10005
Driven by Scooter Patrick 使用ゼッケン No.33、No.34、No.35
MF10-10006
スペアカー 使用ゼッケン No.23 現在スペアカーは日本に戻り、トライアルカーのレプリカとしてトヨタ博物館に展示されている。

TOYOTA 2000GT SCCA 1968


Ronnie Bucknumについて

1964年〜1966年、ホンダF1チームに在籍、まったく経験の無かったホンダチームのマシン熟成には大いに貢献したようである。
1965年のメキシコGPでは5位に入賞するもギンザー優勝の影にかくれてしまうと言う不遇をかこっている。

Link 1/12 HONDA RA272 1965 Mexican Grand Prix Winner

また1966年のルマン24時間ではフォードMkUで総合3位入賞を果たしている。

Link 1/43 1966 LeMans 24H


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Dave Jordan及びScooter Patrick
戦績を調査してみたがチャンピオンシップにおける記録は「Lola-Chevrolet T70 Mk III」による「1968 Sebring 12 Hours」参戦のみである。

Sebring 12 Hours 23.3.1968
Started: 68
Classified: 22



シェルビー・アメリカン


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シェルビーと言えば何と言っても「ACコブラ」である。
1964年頃からフォードからのエンジン供給を受け「ACコブラ」でルマンを始めヨーロッパの主要レースに積極的に参戦し「デイトナコブラ」でクラス優勝を勝ち取る実績を積み上げていた。

これはフォードの世界戦略の一端と考えてよいと思う。
そして1966年及び1967年の2年連続で念願のルマン24時間レースの制覇を成し遂げると言うフォード戦略の最終目標を完了させた立役者がキャロル・シェルビーなのである。

TOYOTA 2000GT SCCA 1968

しかし目標を達成したフォードは翌年レース活動からあっさりと手を引いてしまう。
レース活動で獲得した評価が「ムスタング」の販売拡大に大きく貢献した為、これ以上のレースプログラムへの投資より「ムスタング」の量産強化が最重要課題となったのである。

シェルビー・アメリカンもフォードから発注される「ムスタング」高性能バージョンの製作及びレース支援に追われ自身のレース活動どころではなかった様だ。


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そしてシェルビー・アメリカンのレース活動の記録は60年代を最後に見受けられなくなる。
「コブラ」の商標をフォードに1ドルで売り渡して。


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SCCA -「Sports Car Club of America」-(スポーツ・クラブ・オブ・アメリカ )


TOYOTA 2000GT SCCA 1968


アマチュア、プロを問わず、年間2000以上の大小様々なモータースポーツイベント(主にロードレース)を主催する非営利組織。
1944年にスポーツカーの持ち主たちが、愛車を走らせる機会をつくるためボストンに設立。

現在はアメリカ国内に109の支部、65,000人の会員を抱え、大きなロードレースのほとんどを、この会員によって運営する。


TOYOTA 2000GT SCCA 1968

SCCAカテゴリー
主なカテゴリーは以下
SPORTS RACING A〜D
SEDAN 〜 A〜D
PRODUCTION A〜H
FORMULA A〜C,VEE

当時のトヨタ2000GTはPRODUCTION Cに該当する。
車体側面の「CP」がその記しである。
このクラスの参加車両はトライアンフ250(Triumph TR5 米国バージョン)フェアレディ311、ロータス・エラン、ポルシェ911S等


TOYOTA 2000GT SCCA 1968

チャンピオンシップについては1964年から1969年までの期間リバーサイドとデイトナを交互に使って開催していた様である。

1964 Riverside International Raceway
1965 Daytona International Speedway
1966 Riverside International Raceway
1967 Daytona International Speedway
1968 Riverside International Raceway
1969 Daytona International Speedway
1970 Road Atlanta


TOYOTA 2000GT SCCA 1968


スペック・戦績



TOYOTA 2000GT SCCA 1968

詳細は不明だが7インチ・レーシングホイールで足回りを固め内装を取り払ったくらいの改造でパワーもオリジナルの150馬力から205馬力程度のチューンだった様だ。

戦績についても詳細は不明だが3度のワン・ツーフィニッシュを含め、1位4回、2位8回、3位6回、4位2回、5位1回という驚異的な成績を残している。

そして「TOYOTA 2000GT」の北米におけるレース・プログラムはこの年1968をもって終了し、その後は「TOYOTA 7」による日本国内の活動に集約されて行く。



モデルについて




TOYOTA 2000GT SCCA 1968

  • さすが「Auto art」だけあって全体的に綺麗にまとめられているが少々迫力に欠ける様にも思える。
    例えばルーフの盛り上がりが実車に比べて弱い様に見える。
    また車高についても、もうちょっとだけ下げてほしかったのである。

    2016/06/13 更新

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