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■ETCC

The European Touring Car Championship index

http://touringcarracing.net/Pages/ETCC.html

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Part 1: 1963-1967 The early years

http://touringcarracing.net/Pages/part1.html


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---Scorpion Magazine-------------------------------------------------------------------


1966 FIAT ABARTH 1000 BERLINA CORSA|アバルトの歴史を刻んだモデル No.011

https://www.abarth.jp/scorpion/abarth-classiche/6544

ツーリングカーレースを席巻した、闘うアバルト

創業以来、数々のレースで勝利をあげてきたアバルト。
1961年に送り出されたフィアット アバルト850TCは、ツーリングカーレースやヒルクライムレースの850ccクラスで圧倒的な強さを見せた。
時にはより大きな排気量のマシンを打ち破る活躍も見せ、すぐさま王者の貫録を手にしたのだった。
当時、GTカーのカテゴリーは、700cc以下、850cc以下、1000cc以下に分類されていた。
すでに850cc以下のカテゴリーを席巻したアバルトは、1000ccクラスに挑むモデルの開発を進めていた。

こうして1962年に登場したのが「フィアット アバルト1000 ベルリーナ」である。
車名は先に登場した850 TCにならった1000 TCとはせず、1000 ベルリーナと名付けたのがイタリア的といえる。
しかし、愛好家の間では「1000 TC」と短い名前で呼ばれることもある。

850 TCと同様に、「フィアット 600」をベースに製作された1000 ベルリーナは、エンジン型式こそ直列4気筒OHVだが、総排気量はフィアット600D用ブロックをもとに製作された1000 ビアルベーロと同じ、982ccとされた。
最大出力はロードバージョンが60hp/6000rpmで、レーシングバージョンの「コルサ」では68hp/6800rpmにまで高められた。
最高速度はロードバージョンの150km/hに対し、コルサは170km/hに達した。

外観は基本的には850 TCと変わらないが、フロントフェンダーに「FIAT ABARTH 1000」の切り抜き文字が取り付けられた。
このほかホイールはそれまでのアマドーリのスチール製に代えて、カンパニョーロ製エレクトロン(軽合金)、いわゆる “アバルトパターン”のホイールを採用した。
エンジンフードは付属のステーで水平まで上げることができ、エンジンルームの放熱に貢献した。

こうして戦闘力が高められた1000ベルリーナ コルサは、すぐさまイタリアを始めとするヨーロッパのツーリングカーレースで活躍を始めた。
1000cc以下のクラスで圧倒的な強さを見せつけ、1964年に早くもイタリア国内ツーリングカー選手権のチャンピオンを獲得した。

1965年には、効率と耐久性を高めるためにクーリングシステムが大きく変更された。
大型のラジエターがノーズに配されると共に、ラジエターをカバーするフェアリングが取り付けられた。
この変更によりパワーをロスするリヤラジエターの冷却ファンを無くすことができ、エンジンのパフォーマンスを向上させることに成功した。

このほか足回りにも手が加えられ、フロントサスペンションは横置きリーフスプリングをロワーアームとして機能させつつ、新設計のコイルスプリングと同軸のダンパーを組み込むことで、コースに合わせた細かなセッティングを可能とした。

こうした各部の改良により性能を引き上げた1000 ベルリーナ コルサは、1965年のシーズン開幕から優勝を飾り、同年のヨーロッパ ツ−リングカー選手権ディビジョン1(1000cc以下クラス)のチャンピオンを獲得。
イタリア ツーリングカー チャンピオンシップの1000cc以下クラスのタイトルも手にした。

1966年には、1000ベルリーナ コルサは各部がさらに磨き上げられた。
エンジンは圧縮比を10.2:1から13.0:1まで高め、最大出力は85hp(+5hp)にまで向上。
レブリミットも7600rpm(+100rpm)へと引き上げられた。
一方で車重は583kgまでシェイプアップされ、最高速度は195km/hに達した。

外観は、ノーズのラジエターをカバーするフェアリングを大型化し、空力性能を向上させるとともに、デザイン面でもボディラインにマッチするものとした。
このノーズは1970年に登場する“究極のツーリングカー”「1000 ベルリーナ コルサ テスタ ラディアーレ」(通称1000TCR)にも受け継がれることとなった。

また、1966年モデルではボディカラーがそれまでのアイボリーからベルリーナ コルサを象徴するグレーへと変更し、ボディサイドのウェストラインには赤いストライプを配し、印象的なカラースキムとなった。
また、ワークスマシンには識別用としてルーフにチェッカー模様のマーキングが施され、850 TCはイエロー、1000 ベルリーナはレッドでペイントされた。
こうした洗練されたカラーコーディネイトは、カルロ・アバルトの美意識の高さを物語る良き例と言える。

このルーフに施されるチェッカー模様はアバルトの定番モチーフとなり、現在でも「アバルト 500」にもオプションで用意されているので目にされた方も多いだろう。
その起源は1966年にまで遡るのである。

こうしてより年を追うごとに戦闘力を高めた1000ベルリーナ コルサは、次々と記録を書き換えてゆく。
1966年ヨーロッパ ツ−リングカー選手権では、ディビジョン1(1000cc以下)クラスのチャンピオンを前年に続き勝ち取った。
その後も戦闘力を高める改良を重ね、ツ−リングカー1000ccクラスの王座を守り抜き、栄光のストーリーを後継モデルの1000TCRへ引き継いだのだった。

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1970 FIAT ABARTH 1000 Berlina Corsa Group2 アバルトの歴史を刻んだモデル

https://www.abarth.jp/scorpion/abarth-classiche/6836

1970 FIAT ABARTH 1000 Berlina Corsa Group2
フィアット・アバルト1000ベルリーナ・コルサ・グループ2


■究極のツーリング・レーシングカー

 

アバルトの伝説を作り上げてきたレーシング・マシンは、2シーターのGT/スポーツカーと、量産車をベースとしたツーリングカーに分けられる。
そのツーリングカー・レースを闘うマシンの代表格が、何の変哲もないフィアット600をベースとしたベルリーナ・コルサで、その中でも象徴的な究極の存在がフィアット・アバルト1000TCRこと1000ベルリーナ・コルサ・グループ2なのである。

アバルトがフィアット600をベースに制作したモデルは、本シリーズの第13回で紹介した1956年に送り出された750デリヴァツィオーネに始まる。
1961年になると当時のクラス分けにあわせて排気量を850ccにまで拡大して、各部のチューニングをより高めて52hpを発揮し、足回りを固めると共にディスクブレーキ備える850TCを送り出す。
翌1962年には1000ccクラス用に982ccまでスケールアップさせ60hpを誇る1000TCも加わる。
もちろんレース用にチューニングをより突き詰めたコルサ仕様も用意され、最高出力は850TCコルサで68hp、1000TCコルサでは85hpを発揮し、ツーリングカー・レースを席巻し続けた。

 

こうしてイタリアを始めヨーロッパのツーリングカーを圧倒的な強さで制したアバルトだが、完璧なマシンを目指すカルロ・アバルトだけに常に改良が加えられていた。
ちなみに主な変更点を記すと1965年にはパワーを奪う冷却ファンを無くしたフロント・ラジエターが採用され、1968年には新型リヤサスペンションを開発している。
これらの改良の最終到達点がテスタ・ラディアーレと呼ばれる半球形の燃焼室を持つシリンダーヘッドの採用だ。
1968年から大幅な変更が許されるCSIグループ5(特殊ツーリングカー)規定に対応したもので、テスタ・ラディアーレの採用により、OHVながら燃焼効率をより高めたことから982ccの排気量から実に112hpを発揮するに至った。

 

ここでアバルト通例のややこしい車名と愛称名について説明しておこう。
このテスタ・ラディアーレを備えるタイプの正式なモデル名は、フィアット・アバルト1000ベルリーナ・コルサで、以前のシリンダーヘッドを備えノーマル・フェンダーのタイプも1000ベルリーナ・コルサと呼ばれている。
正式名が長いこともあり愛好家の間ではラディアーレを意味するRを附して1000TCRとされ、以前のタイプは850TCに倣い1000TCと呼んで区別している。

こうして誕生した1000TCRは、1968年3月24日アウトドローモ・モンツァで開催されたジョリー・クラブ4時間でデビューを果たす。
テスタ・ラディアーレを備えるエンジンを搭載する1000ベルリーナ・コルサがアバルト・ワークスチームから姿を見せた。デビュー戦こそトラブルで記録を残せなかったが、以後勝利の記録を重ね、ツーリングカー1000ccクラス・チャンピオンの座を勝ち取る。

1970年1月にアバルトは、CSIの新しい車両規定に適応させてアップ・デートした、“テスタ・ラディアーレ”付の最新バージョン1000TCRグループ2仕様を発表する。
このモデルから太いタイヤを収めるために新たにデザインされたフロント/リヤ・フェンダーを備え、コーナリング性能を向上させた。
このほかプレクシグラス(アクリル)製のサイド/リヤ・ウインドーを採用し、さらに軽量化が突き進められ一段と戦闘力を高めた。
エンジンは圧縮比を13:1まで高めると共に、テスタ・ラディアーレに2基のツインチョーク・ウェーバー40DCOE2を組み合わせることにより最大出力は112hpにまで到達し、最高速度は215km/hをマークした。
1000TCRは、フィアット600をベースとしたモデルの最終進化型だけに、そのルックスも強烈だ。フロントに備わる巨大なラジエターと大きく張り出したリヤフェンダー、水平まで開いたエンジンフード、太いエグゾーストパイプ、スカート下にのぞくアルミ製の大きなオイルサンプがそのパフォーマンスを誇示していた。

 

勝利を追求するアバルトだけに、その後も地道に改良を加え続けた。
その中で大きな変更が新設計の鋼管製トレーリング・アームを採用したリヤサスペンションで、キャンバー変化を最小限に抑えながら、サスペンション・ストロークを大きく取ることに成功し、コーナリング時の安定性が大きく改善されラップタイム短縮に貢献した。1000TCRグループ2仕様の最終バージョンでは、フィアット600から受け継いだロワーアームを兼ねる横置きリーフ・スプリング式のフロント・サスペンションが廃され、ペントラーレと呼ばれるクロスメンバーにAアームとコイルスプリングを用いた方式に変更し、細かなセッティングが可能となったことからコーナリング性能をより高めた。
これらの改良により1970年のイタリアとヨーロッパ・ツーリングカー選手権の1000ccクラスで王座を勝ち取るのである。

こうしてツーリングカー・レースで1000ccクラスの王者であり続けたフィアット・アバルト1000TCRだが、突然の終焉を迎える。
1971年になるとヨーロッパ・ツーリングカー選手権のディヴィジョン1が1000cc以下から1300cc以下に変更されたことから、絶対的な排気量の差はいかんともし難く、アバルトは1000TCRのワークス参戦を中止する。
こうした中で1971年10月15日にアバルト社はフィアットに吸収され、フィアットのラリー車と市販車のスポーツ・バージョンの開発を担当することになる。
この決定によりアバルトのサーキット・レースのプログラムはすべて中止されるが、1000TCRのパフォーマンスを知るプライベーター達がレース活躍を続け、1972年のイタリア・ツーリングカー選手権1000ccクラスのチャンピオンに輝いている。

 

このようにフィアット・アバルト1000TCRは卓越したパフォーマンスと素晴らしいレーシング・ヒストリーからアバルトのツーリングカーの頂点に君臨し続け、今も世界中の愛好家の間で究極の1台として支持され続けている。

スペック

1970 FIAT ABARTH 1000 Berlina Corsa Group2

全長 :3530mm
全幅 :1420mm
全高 :1300mm
ホイールベース:2000mm
車両重量 :583kg
エンジン形式:水冷直列4気筒OHV
総排気量 :982cc
最高出力 :112hp/6500rpm
変速機 :5段マニュアル
 タイヤ(F/R):4,25/9.50-13
最高速度:215km/h

 

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ガレーヂ伊太利屋

アバルト 1000TCR (仕様)

http://garage-italya.co.jp/classiche/%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%ab%e3%83%88%e3%80%801000tcr%e3%80%80%e4%bb%95%e6%a7%98

正式名は「アバルト 1000 ツーリズモ コンペティツィオーネ ラディアーレ ベルリーナ コルサ(通称 1000TCR)」となります。

Tulizmo Competizione Radeale

実車はコーナーリング性能を向上させる為に太いタイヤを装着し、それを収めるために前後共に大胆な形状のフェンダーを備えています。
また、巨大なラジエター、水平まで開いたエンジンフード、極太の獲エグゾーストパイプ、スカート下にのぞくアルミ製の大きなオイルサンプがそのパフォーマンスを誇示しています。

(諸元)

全長: 3530mm
全幅: 1390mm
全高: 1400mm
ホイールベース: 2000mm
車輛重量: 583Kg

エンジン形式: 水冷直列4気筒OHV
総排気量: 982cc
最高出力: 112hp /7600rpm
変速器: 5速 マニュアル
タイヤ: 4.50-13
最高速度: 195Km/h

1000TCRの特徴でもあるリアエンジンフードを水平まで上げた状態で固定できる構造は、エンジン冷却のための効率の良い方策でした。
ダッシュボードでは左から燃料、水温、油圧のコンビネーション、中央にはイエーガー製お3連メーターナセルが備わります。
ホイールはそれまでのアマドーリのスチール製に代えて、カンパニョーロ製エレクトロン(軽合金)いわゆる“アバルトパターン”のホイールを採用しました。
1965年には、効率と耐久性を高める為、クーリングシステムが大きく変更され、大型のラジエターがノーズに組み込まれると共に、ラジエターをカバーするフェアリングが取り付けられました。
この変更によりパワーをロスするリアラジエターの冷却ファンを無くすことができ、エンジンのパフォーマンスを向上させることにも成功しました。
フロントのフード内にはフューエルタンクとバッテリーが収まります。
現在搭載されているエンジンはフィアット600のエンジンをベースに、1000TCR同様 テスタ・ラディアーレと呼ばれる半球形の燃焼室を持つシリンダーヘッドを装着しています。
テスタ・ラディア―レの採用により、OHVながら燃焼効率を高めたことから、982ccの排気量から112hpを発揮するに至りました。
新設計の銅管製トレーリングアームを採用したリアサスペンションで、キャンパー変化を最小限に控えながら、サスペンション ストロークを大きく取ることに成功し、コーナーリング時の安定性が大きく改善され、ラップタイムの短縮に貢献しました。フィアット 600 から受け継いだロワアームを兼ねる横置きルーフスプリング式のフロントサスペンションを廃し、「ペントラーレ」と呼ばれるクロスメンバーにAアームとコイルスプリングを用いた方式に変更し、細かなセッティングが可能となり、コーナーリング性能をより高めました。
これらの足廻りのレストアも施されています。
また、ウェーバー40のキャブレターはオリジナルと同様のものを使用しています。


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■カルロ・アバルト

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88

カルロ・アバルト(Carlo Alberto Abarth 、1908年11月15日 - 1979年10月24日)は、オーストリア出身のレーサー及び技術者。自動車メーカー・アバルトの創始者としても知られる。

フィアット・500のような非力なベース車が「アバルトマジック」とも呼ばれる彼のチューンによって見違える程、高性能化してレースで活躍するさまは多くの人々に感銘を与え、半ば神格化、伝説化していた。
1990年代末にそのブランドに幕を閉じると多くの人々が惜しみ、2007年にアバルトのブランドを冠したモデルが復活した。

経歴
1908年 - カール・アバルト(Karl Abarth )としてオーストリアのウィーンの裕福な家庭に生まれる。
若い頃から機械、そしてスピードへの興味が強く自転車レースを通じその才能を発揮し始める。
学校卒業後はオートバイ関連の仕事に関わり、20歳にて自身初のオートバイの設計製作をした。

1928年4月 - オートバイレースに初参加するが、ベテラン勢との兼ね合いが悪くチームを去ることになる。

1929年 - 優れたメカニックとしてアバルトの名を冠した軽量のオートバイを製作し、またレーサーとしても好成績を収めていく。

1930年 - レース中の事故により重傷を負うが、以後はサイドカーでレースに参加した。
オリエント急行との競争にて勝利、名を高める。

1939年 - 第二次大戦の勃発とともにイタリアへ移住。
以後はカルロ・アバルトと名乗る。

1946年 - トリノにあるポルシェのイタリア代理店のチシタリアで技術者として活動していたが会社の経営状態は思わしくなかった。

1949年 - 自らアバルトを設立。会社の紋章は自らの星座であるサソリであった。


マフラーを始めとするチューニングパーツ販売を主力とする他、フィアット車をベースとしたスポーツカーやレーシングカーを販売し、1950年から1960年代にかけての20年の間に113の国際記録とレースに於いて7400以上もの勝利を獲得した。
1971年8月 - レース参戦の負担により会社経営は厳しくなり、20年以上協力関係を続けていたフィアットに買収される。

1979年10月24日 - 重病に倒れ、死去。

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株式会社ACJマガジンズ

アバルトの創始者カルロ・アバルトとはどんな人? 誕生?怒涛の勝利 クルマとともに振り返る

https://www.autocar.jp/specialissues/2019/11/29/440502/

レースを闘うために設立されたアバルトは、創業以来いつの時代も勝利を目指して高性能で魅力的なクルマを送り出してきた。
その根底にあったのは、レーサーでありエンジニア、そして名プロデューサーだった創始者カルロ・アバルトの熱き情熱と挑戦する心だったのである。


カルロ・アバルト、誕生

レースで磨き上げられてきたメーカーには、必ず熱い情熱を持った創始者が存在する。
サソリのエンブレムを掲げるアバルトもその例にたがわず、レーサーでありエンジニアのカルロ・アバルトがレースを闘うために立ち上げたメーカーなのである。

カルロ・アバルトは1908年にオーストリアのウィーンで誕生する。
当時の名はカール・アバルト(Karl Abarth)で、子どもの頃から機械やスピードへの興味が強く、まず自転車レースで頭角を現し始める。
やがて2輪車の世界に入り20歳で自ら製作したマシンでレースに挑み、いきなり勝利を得るという天賦の才を見せつける。

1938年に父の故郷であるイタリアのメラーノへ移住しイタリアの市民権を得て、名前をカールからカルロへ改める。
その後もレースを続けるが1939年10月のレースで大事故に見舞われてライダー生命を断たれ、エンジニアに転向する。

第2次大戦後は新興スポーツカーメーカーの「チシタリア」から招かれ、カルロは4輪レースの世界に足を踏み入れる。
チシタリアの撤退後はマシンを受け継いでレースを続けることにし、1949年にレースを闘うためにアバルト社が設立され、エンブレムにはカルロの星座であるサソリが採用された。
すぐさまレーシング・チームを結成し、タツィオ・ヌヴォラーリらのトップドライバーを擁し、最強の体制で勝利の記録を伸ばし続けた。

しかしレースを闘うためには資金が必要だった。

怒涛の勝利 成功へ一直線

そこでカルロはエンジニアとしての才能を駆使してパワーアップを実現するエグゾースト・システム「マルミッタ・アバルト」を開発。
その性能が認められて大成功を収め、アバルト社を大きく成長させた。
この「マルミッタ・アバルト」は、現在のモデルに備わる「レコード・モンツァ」の原点でもある。

1955年にフィアット600がデビューするとカルロは備え持つ高いポテンシャルを見抜き、1956年に高性能版のフィアット・アバルト750デリヴァツィオーネを製作し、続いてそのコンポーネンツを基にザガート製の軽量アルミボディを備える2座GTのフィアット・アバルト750GTザガートを送り出し、メーカーとしてのアバルトの地位を確立した。

以後ビアルベーロ(DOHC)エンジンを搭載するレコード・モンツァ、フィアット600を高度にチューニングを施した850TC/1000TC、フィアット500にサソリの毒を注ぎ込んで高性能化した595/695、究極のGTマシンといえるOT1300などを送り出し、レースを席巻するとともに、高性能なクルマとして愛好家から絶大な支持を得るのだった。

高性能なだけではない魅力

カルロが手掛けたアバルト車は高性能なだけではなく、クルマ好きを魅了するスタイリングが特徴だった。
それはカルロの美意識の高さによるもので、冷却効果を高めるために開かれたエンジンフードや、ルーフにそびえ立つ潜望鏡のようなエアインテークなど、マニアを唸らせるデザイン処理が見事だった。

またバッジのデザインやストライプの色遣いなどのセンスも卓越しており、これらのエッセンスは現在のアバルトにも受け継がれている。

カルロ・アバルトは伊達者としても知られ、常にスーツでびしっと決めていた。
また美食家ゆえに太って速度挑戦車に乗れなくなると、リンゴでダイエットを行い30kgも減量して速度記録に挑んだエピソードからも、カルロの飽くなきスピードへの情熱が理解できよう。

1960年代後半になるとイタリアでは労働争議によるストライキが続発し、アバルト社も例外ではなくレース活動や市販モデルの生産に大きなダメージを受け、経営も厳しくなっていた。
そのためカルロは1971年にアバルト社をフィアット傘下に入ることを決断する。

カルロはその後もアドバイザーとしてアバルト社へ協力を続け、1979年10月24日、享年71歳でこの世を去るまで、数多くの栄光をフィアットにもたらした。


フィアット600のコンポーネンツを利用したアバルト初の量産2座GTモデルが750GTザガートだ。
747ccエンジンは47HPを発揮し、ザガート製アルミボディにより535kgと軽量で最高速度は160km/hに達した。
デビューするやミッレミリアを始めとするレースで大活躍した。
そのルーフ形状から「ダブルバブル」というニックネームで呼ばれている。

アバルトはレースに加え最高速度記録も積極的に挑んでいた。
最高速度記録は瞬間的な最高速度ではなく、6時間、12時間、24時間、72時間と長時間最高速度をキープするもので、性能のみならず耐久性も証明できるため各社が挑んでいた。
アバルトは1956年から750cc、500cc、1000ccのレコードカーで新記録を樹立し、その後も記録を更新し続けた。


フィアット・アバルト750GTザガートでレースを席巻したアバルトは、1957年にモンツァ・サーキットで新記録を樹立したレコードカーで使用した747ccから57HPを発揮する強力なDOHCエンジンを搭載した新型を送り出す。
モデル名はモンツァで速度記録を樹立したことを記念して『レコード・モンツァ』と名付けられ、さらに勝利を重ねた。


1961年 フィアット・アバルト850TC
フィアット・アバルト850TCはツーリングカー・レースに向けて、フィアット600をベースにアバルトの技術で排気量を847ccに拡大してチューニングし、足回りやブレーキも強化。
こうして850cc以下クラスで圧倒的な強さを見せ付けるとともに、ロードカーは高性能サルーンの代名詞となり、好評なセールスを記録してアバルト社を大きく躍進させた。


1964年 フィアット・アバルト595/695
フィアット・ヌォーヴァ500をベースとしたアバルトによる高性能モデルが595/695シリーズで、デビューするや走りを愛する世界中のエンスージァストから支持された。
レース用の695SS アセット・コルサは圧倒的な速さからライバルを圧倒し700ccクラスの王者を獲得。

まさにアバルトを象徴する存在だけに、現在のモデルにその名が受け継がれた。


1965年 フィアット・アバルトOT1300
アバルトの歴代レーシング・マシンの中で最も美しいスタイルと称されるのがフィアット・アバルトOT1300だ。
GTカテゴリーの1300ccクラスに向けて開発されたもので、排気量1289.5ccの水冷DOHC直列4気筒エンジンは147hpを発揮。
その優れた性能から1966年から2年連続で国際スポーツカー選手権の1.3クラスの王者に君臨した。

1972年 フィアット・アバルト124ラリー
フィアット124スパイダーを基にラリー用マシンとして製作されたのがフィアット・アバルト124ラリーだ。
エンジンの拡大に加えボディの軽量化と、新開発されたサスペンションを備え戦闘力を高めた。
様々なラリーで活躍しヨーロッパ・ラリー選手権では1975年にチャンピオンを獲得した。
現在のアバルト124 スパイダーの先祖といえるモデルである。


1975年 アウトビアンキA112アバルト
アバルトが得意とする量産モデルをチューニングする手法で製作されたのがアウトビアンキA112のアバルト仕様。
1979年からの後期モデルは1050ccから70HPを発揮し、俊敏な走りで人気を集めた。
当時日本にも正規導入され、手頃な価格でイタリア車らしいアピアランスと排気量以上の走りを楽しめることから人気を集め、アバルトの名を広めた。


1982年 ランチア037ラリー
WRCは1982年から義務生産台数が200台のグループB規定で闘われることになる。
フィアット・グループはランチアとして専用マシンで参戦するが、開発と製作は経験豊富なアバルトが担当した。
ミッドシップの2輪駆動で、前後をパイプフレームで構成する純レーシング・マシンという内容だった。
1983年のWRCのチャンピオンを勝ち取った。


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