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www.ferrari.com

https://www.ferrari.com/ja-JP/auto/250-lm

250 LMは1963年10月のパリ・サロンでデビューした、250 Pプロトタイプのベルリネッタ版です。
250 Pプロトタイプのシャシーとランニングギアにわずかな改造を施した上で流用しています。
FIAがこれをGTとしてホモロゲートすることを拒否したため、フェラーリは見込んだ数を販売することができませんでした。
しかも純然たるプロトタイプとしてレースを戦わざるを得なくなり、このモデルにとっての勝ち目は薄くなってしまいました。
皮肉なことに、その代わり250 GTOの現役生命が延びる結果になりました。

Engine

ミドシップ:縦置き・ 60度 V型12気筒
ボア・ストローク:77 x 58.8mm
1気筒あたり排気量:273.81cc
総排気量:3285cc
圧縮比:9.7 : 1
最高出力:235 kW (320 hp) at 7500 rpm
リッターあたり出力:97 hp/?
最大トルク-
バルブ作動システム:SOHC 1気筒あたり2バルブ
燃料供給:ウェバー38/40 DCNキャブレター(×6)
点火装置1気筒あたり:1プラグ、2コイル
潤滑システム:ドライサンプ
クラッチ:シングルプレート


Chassis

フレーム:スチール製チューブラーフレーム
サスペンション 前:独立懸架、ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、筒型ショックアブソーバー、アンチロールバー
サスペンション 後:独立懸架、ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、筒型ショックアブソーバー、アンチロールバー
ブレーキ:ディスク
トランスミッション:前進5段+後進1段
ステアリング:ラック&ピニオン
タンク容量:130?
タイヤサイズ 前:5.50 x 15
タイヤサイズ 後:7.00 x 15

Bodywork

タイプ:2座クーペ
全長:4090mm
全幅:1700mm
全高:1115mm
ホイールベース:2400mm
トレッド 前:1350mm
トレッド 後:1340mm
車重:820 kg(乾燥重量)

Performance:最高速度:287km/h

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1965 Le Mans 24H

1965 Le Mans 24H Result

racingsportscars.

https://www.racingsportscars.com/photo/Le_Mans-1965-06-20.html
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェラーリ・250LM

販売期間1963年
乗車定員2名
ボディタイプ2ドア クーペ
エンジン2,953cc水冷60度 V12 SOHC
駆動方式MR
全長4,270mm
全幅1,700mm
全高1,115mm

ホイールベース2,400mm

フェラーリ 250LMは、イタリアの自動車メーカーのフェラーリが先代のGTカー250GTOの戦闘力低下を補うために生産した車。
250LMのLMとはル・マン(Le Mans)の頭文字。

概要
フェラーリは1962年から1964年のGT III選手権で、3年連続チャンピオンシップを獲得したフロントエンジンモデルの250GTOに限界を感じており、その発展型後継モデルとしてミッドシップレイアウトをとる250LMを1963年秋のパリ・サロンでデビューさせた。

それまでの例にならい、1気筒あたりの排気量を車名としているため、250は250cc×12気筒=3,000cc(実際には2,953cc)を示す。
この3Lエンジンを搭載した車は300PSを発揮したが、実際には最初の1台(シャシーNo.5149)を除いて3,286cc/305PSエンジン(1シリンダーあたり275cc)を搭載していたことから275LMと呼ばれることもある。

当時GT選手権に参戦するには、連続する12か月間に100台以上を生産しなければならない規定があったが、当時のフェラーリは大量生産ができる設備を持たなかったため制作が思うように進まなかった。

生産が思うように進まない250LMをエンツォ・フェラーリは、250GTのエヴォリューションモデルとしてFIAに申請したが250GTOの時とは違いFIAに認可されることはなかった。
結局プロトタイプの1台を含め生産台数は32台に留まり、GT IIIのホモロゲーションが取れなかったため、250LMはプロトタイプクラスでのエントリーにならざるを得なかった。
この決定に腹を立てたエンツォ・フェラーリは、1965年のGT選手権に市販型のフェラーリ車をエントリーさせないという強硬策に出た(この年のルマン24時間レースにだけ275GTB/Cが唯一エントリーしている)。
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フェラーリ250LM|身だしなみの良い悪魔

https://octane.jp/articles/detail/1509

イギリス発祥のヴィンテージカー雑誌「オクタン日本版」

GTレーシングカーか、あるいはスーパーカーの先駆者か?フェラーリは250LMがロードゴーイングカーであると世間に信じさせたかった。
だが疑い深い人たちを納得させることはできなかった…。

ピニンファリーナがデザイン、製作はスカリエッティ

正直に言うならば、すべて予定通りに運んでいたわけではなかった。
カメラカーに付き合ったせいで、車もドライバーも大変な苦行を強いられていたのだ。
これまでのところ、250LMは不機嫌そのもの、いったい何℃あるのかと思うほど室内は暑く、ペダルはガタガタと踊り回っていた。
我々はめまいがするぐらい高い場所を走っていたのだが、それもあまり役に立たず、ドライバーは四方八方からの、あらゆる種類のノイズの集中砲火に耐えている。
スロットルを踏み込んだ時だけは、スピードと由緒正しきV12からの轟音が増すにつれて苦痛からの解放感と歓びが一体となって湧き起こるが、それも一瞬のことに過ぎず、すぐにまた居心地の悪さを苛立たしく思い知らされることになる。
エルゴノミクスという言葉さえ存在しなかった時代なのだ。
古風なスーパーカーとは、まさしくこういうものではないだろうか。


ランボルギーニが「スーパーカー」を発明したというのは大筋で本当のことだろう。
実際、この単語は「ミウラ」のために生み出されたものだ。
それに対してフェラーリは、多少証言内容に違いがあるとはいえ、結局のところ新しいことに手を出しても得るものは少ないと判断し、手堅く、保守的な365GTB/4、いわゆるデイトナでそれに対抗する。
サンターガタ・ボロニェーゼの新参者たちは後に知ることになるのだが、確かに革新的なことへの挑戦は痛い目に遭いやすいものである。

ただし、ご存知のとおり、メディアは同じ土俵に上がろうとしなかったフェラーリの姿勢にたちまち批判を浴びせた。
マルチシリンダーをミッドシップしたランボルギーニに伍するフェラーリの新兵器、365GT4BBは1973年になってようやく準備が整ったが、しかしながら、そのころにはランボルギーニはカウンタックとともにさらに先に進んでいた。
フェラーリはまたしても時代遅れになっていたのである。

もちろん、別の見方もある。
そもそもミッドシップを語るのなら、その2年前にデビューしたATS2500GTを無視して、ミウラをW最初のスーパーカーWと呼ぶのは正しくないという厳格な意見もあるが、それとは別に、フェラーリは既に反撃をしていたではないか、という説である。
つまり、ただ単に250LMをロードカーであると考える人がほとんどいなかっただけだというのだ。
確かにこれをロードカーだというフェラーリの主張にはかなり無理がある。
この車が昔、ユノディエール・ストレートではなく、ラスベガスの大通りを流していたという事実にもかかわらず、疑うべき理由は山ほど並べることができるからだ。

50回の節目を祝う1963年10月のパリサロンでベールを脱いだ250LMは、賞賛と言うよりは好奇心の混じった訝しげな視線を集めたという。
ロード&トラック誌のヘンリー・マネイ三世はこうリポートしている。
「ATSクーペを半信半疑で眺めながら、ピニンファリーナはル・マン・ウィナーの250Pに蓋を被せたようなボディを作らされたのだろう。
LMとはもちろんル・マンのこと、この車は、あの聖なる250GTOの後継者となるべきモデルなのだが…。
性能数値は例によって信じられないほどだが、そうではないという理由も見当たらない」


フェラーリによる推定最高速度は180mph(290km/h)以上とされていたが、これまた例によって社外の人間は誰も試すことができなかったのだ。

250LMのエンジンは軽合金製V型12 気筒2953cc(最終的に3286ccに拡大)、テスタロッサ用シリンダーヘッドにドライサンプ式潤滑システム、クロスレシオの5段ギアボックスを採用していた。
サスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーンとコイル、デザインはお気に入りのピニンファリーナが担当し、スカリエッティがボディを製作した。


250LMはGTカーだと認めさせるためにフェラーリは努力を惜しまなかった

フェラーリは、国際レースの統括団体であるCSI( CommissionSportive Internationale=FIA:国際自動車連盟のモータースポーツ部門で後のFISA)だけでなく、広く世間に250LMがGTカーであることを認めさせようと全力を尽くした。
たとえ実質的には1963年のル・マン24時間を制したスポーツプロトタイプの250Pに屋根を取り付けただけの車だったとしても、新しいロードゴーイングGTであると言い張ったのである。
依然として250GTOはGTカテゴリーの王者として君臨していたが、シェルビー・コブラをはじめとしたライバルの成長は目覚ましく、フェラーリも新しい武器を必要としていたのである。
しかし、それには明らかな、しかも大きな問題があった。
250LMをGTカテゴリーとして認可させるには最低100台という義務生産台数をクリアする必要があったのだ。

フェラーリは、ホモロゲーションに関するレギュレーションをすり抜ける達人であり、250GTOの際にもCSIを欺いてまんまと認証を手に入れていた。
新しい車も間違いなく判を押してもらえることを疑わなかったコンメンダトーレは、LMに奇数のシャシーナンバーを割り当てた。
フェラーリの決まりでは、奇数はロードカー、偶数がレーシングカー用の番号なのである。
だが、今回はCSIも騙されなかった。
フェラーリの申請は却下され、LMはGTではなく、スポーツプロトタイプとしてレースに出ることになった。


ホモロゲーションにまつわる物語は1964年に続く。

CSI(とFIA)に対して癇癪を爆発させたエンツォ・フェラーリは、その年のF1グランプリの最後の2戦、アメリカとメキシコGPからワークスチームを引き揚げさせた。
とはいっても、連合軍たるNART(ノースアメリカン・レーシングチーム)が代わりに出場していたのだから、いわばポーズに過ぎなかった。

その250LMは、第一線のレースで活躍するには重すぎた。

ゆえにほとんどの勝利は地元のスプリントレースやヒルクライムなどで挙げたものだった。
もちろん1965年にはル・マンで歴史的な優勝を遂げているが、前述の理由からこの勝利は大番狂わせと見られていた。
そのうちにCSIは態度を軟化させ、LMに一応の承認を与えることになったが、結局エンツォが期待したような無敵の王者にはなれなかった。
しかしながら、スーパーカーのパイオニアを名乗るには十分すぎるほどの資格を持っていると言っていいだろう。


ここに紹介するフェラーリ250LM、シャシーナンバー6045は、全部で32台作られたLMのうちの19台目で、1965年にリノのカジノ王、ビル・ハーラーが購入した車である。
世界的に有名なカーコレクターにして7度も結婚したこの億万長者は、イタリア製高性能スポーツカーの大の贔屓筋であり、数ある所有車の中には410スーパーアメリカやフェラーリV12を積んだジープ・ワゴニアなど広く知られたものもある。
ハーラーは1966年4月までこの車を所有していたが、その時点でオドメーターはわずか800マイル、しかも1マイルたりともサーキットを走ったことはなかったという。
時は下って1969年、二番目のオーナーであるビバリーヒルズのDr.ハート・アイザックスが交通事故に巻き込まれ、燃料タンクのひとつが裂けて出火、LMは片側に酷いダメージを負ってしまった。


その後の話は、この手の車にはよくあることだが、非常に入り組んでいる。

あえて要約すると以下のようになる。
1971年にこのLMはインシュランス・オークションにかけられ、カリフォルニア州ベルフラワーのドナルド・シンプソンの手に渡る。
そしてヒストリアンでコレクターのロン・ケロッグの助言を受けて、車は一部解体され、グラスファイバー製ボディに置き換えられた。
1972年にケロッグがその計画を引き継ぐが、一年後にエンジンは250GTOオーナーのDr.スチュアート・バウムゴールドに売られ、またシャシーやトランスアクスル、ホイール、そしてボディなどは、Dr.ハミルトン・ケリーが自分のLM(No.6023)用のスペアパーツと

して買い取った。
ただし、フレームを引き取る際にトラックの荷台からはみ出すことが分かり、その後部を切り取ってしまったのだ。
この乱暴な処置がLM6045を数奇な運命に巻き込むことになる。
カットオフした部分にこそ、大切なシャシーナンバーが刻まれていたのである。

ここまでで十分に複雑だが、物語はまだまだ終わらない。
ケリーはほとんど完成したシャシーを、大学教授のチャールズ・ベッツとフェラーリ・レストアの第一人者であるフレッド・ロジャースに売却、そのロジャースは1980年にランチアのワークスドライバーだったジョルジョ・ショーンへ転売した。
ショーンは、フェラーリの顧客サービス部門のガエターノ・フロリーニにシャシーのチェックを依頼、本物であるとのお墨付きを得た。
そこで伝説のフレームワーカー、ウィリアム・ヴァッカーリ(スペースフレームを最初に製作した会社である)に依頼してレストア、その後完成品をスイス人ブローカーのウルリッヒ・グジスバーグに売却する。
その彼に頼まれたコーチビルダーのフランコ・バッケリとロベルト・ヴィラが新しいボディを叩き出し、同時にその時代のふさわしいエンジン(おそらく250P用)を探し出した。出来上がった車は日本と米国の間を行ったり来たりした後、2007年に英国のDKエンジ

ニアリングの顧客の手に渡った。

そのいっぽうで、同じような物語が進行していた。10年以上前にオリジナルの6045から切り取られたフレームの一部を使って、二台目の車が米国で製作されていたのである。
6045のV12エンジンが積まれたこのレプリカはアリゾナ州のエンスージアストの手に渡ったという。
つまりこれで二台の6045が存在することになった。
一台はオリジナルシャシーを持つがシャシーナンバーとエンジンがなく、もう一台は本物のナンバーとエンジンを持つコピーというわけだ。


ここまで来たら決着を知らずにはいられないはずである。DKエンジニアリングがそのもう一台のLMを手に入れたことが最終章だ。
そのV12エンジンが再びオリジナルシャシーと結ばれたのは、離れ離れになってから実に38年後、2011年9月のことである。
そしてオーナーはフェラーリ・クラシケを招き、フレームの最後の部分を移植した。
すなわち、正しいシャシーナンバーをレプリカシャシーからオリジナルへ移し替えたのである。

本来の姿にレストアされた6045は、遅ればせながら本来の住処であるサーキットで見かけられるようになり、グッドウッド・リバイバルやルマン・レジェンズなどのイベントにも顔を出している。
しかしながら、それでもこの車はある種のロードカーであり、一般道に引き出したい欲求に駆られる。
つい忘れがちだが、250LMは非常にコンパクトな車であり、またその生い立ちの裏に色々と思惑があったとしても、ピニンファリーナにとって初めてのミッドシップの市販モデルという記念すべき作品である。
当時は、短いノーズと長いテールを持つキャブ・フォワードのプロポーションが不評だったが、大きなエンジンとギアボックスを収めるためにはピニンファリーナの腕を持ってしても限界があったということだろう。
もちろん、現代の目には正しく考えられた芸術作品と映る。
今やコーチビルダーがレーシングカーを形作る時代は終わり、スポーツプロトタイプは幾何学的な形状を持ち、ボラーニホイールは幅広いマグネシウムホイールに置き換えられている。

それにしてもLMに乗り込むには骨が折れる。
あの当時はいったいどうやって素早いドライバー交代ができたのだろう。
ナルディの巨大なステアリングホイールを避けながら、不自然な格好で体を折り曲げながら乗り込むと、湾曲したウィンドスクリーンからの眺めは抜群、もっとも自分の足がフロントアクスルよりずっと前に出ていることを意識させられる。
予想通りトリムはごく簡素で、ヴェリアの回転計とオイル/水温計などの主な計器はナセルに収められてウッドリムに半ば隠れている。
その他のメーターは右側、役に立たないパーキングブレーキの真上に設けられている。


キーを回して燃料ポンプのカチカチ音を待ち、スターターボタンを押すと短いヒューという唸りの後にこの世の終わりのような轟音が聞こえてくる。
大きいなどという表現が及ばないほどだ。
だがそれは誰かに、もし聞こえる人がいるならばどうしても伝えたくなるような音である。とにかく偉大な機械である。


クラッチは思ったほど重くはないが、ノンシンクロのギアボックスはシフトアップもダウンもダブルクラッチを踏む必要がある。
当時のスペック通りのこの車はギアも内製であり、1速から2速へアップする際にはややひっかかるが、Hゲートの中に入ってしまえば正確にシフトできる。
ただし、回転を下げるとガリッと抗議の声を上げる。
何しろ250LMはゆっくり運転することができない車、それを許してくれない車なのだ。
ラック&ピニオン・ステアリングは想像するよりずっと軽い。
低速ではノーズが落ち着かず神経質だが、スピードが上がると何事もなかったように安定する。
タイトなコーナーでは適度なアンダーステアを見せるが、限界まで試すのでなければ自信をもって操縦できる。
LMは多くのスーパーカーよりも、ドライバーの対応力を要求すると言えるだろう。


エンジン回転が一旦パワーバンドに入れば、文句のつけようもない。
人を虜にするような魔力を持つ

とはいえ、LMの神髄はエンジンである。車重はわずか850kg、それに対してパワーは320bhpである。
0-100mph加速の12秒というタイムは、当時としては抜群のもので、458イタリアでも少しは驚いたはずだ。
エンジン回転がスイートスポットに入っている限り、少しも不足を感じることはないはずだ。
このエンジンは癖にさせるような魅力を持っている。
もっとも、ロードカーとしては数多くの欠点があることを忘れてはいけない。
乗員をジリジリ焼き上げるような熱さのほかにも、ギアレバーはパセンジャー側に傾いているし、乗り心地は奥歯がガチガチ当たるような類だ。
何しろ、大きな声では言えないが、本当はレーシングカーなのである。


250LMは最近のホモロゲーション・モデルとそれほどかけ離れているわけではない。
もちろん、一般路上でのマナーは、たとえばフォードGT40と同じではないが、ルックスも性能も、そして血統も完璧だ。
フェラーリは便宜上ロードカーと言ったのかもしれないが、LMは文字通りのスーパーカーである。
若干、年齢を取ったかもしれないが、その魅力は少しも色褪せてはいない。


フェラーリ250LM
エンジン:軽合金製60°V12 3286cc ツインチョークウェバー38DCN×6基
 最高出力:320bhp/7500rpm 最大トルク:213lb-ft/5000rpm
トランスミッション:5段マニュアル ステアリング:ラック&ピニオン
 サスペンション:前後ダブルウィッシュボーン、
コイルスプリング/油圧ダンパー、スタビライザー
 ブレーキ:4輪ディスクブレーキ(リアはインボードタイプ)
 車重:850kg 最高速度:180mph

短いノーズと長いテールが当時の批評家の気に入らなかったようで、LMの美しさは当初は評価されなかった。もちろん現代では正当に、芸術品とさえ認められている。

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https://www.4porte.net/product/2917

MFH 1/12 フェラーリ 250LM Ver.B [K654]

【 Ferrari 250LM について 】
1950年代から始まった世界スポーツカー選手権は、1962年から国際マニュファクチャラーズ選手権と名を改め、量産GTカーでもチャンピオンを争うレギュレーションとなります。
フェラーリはこのチャンピオンシップを制する為、250GTOを投入、64年までGT-IIIクラス王者として君臨します。しかしシェルビー・デイトナを始めとした強力なライバル勢が現れ、フェラーリは後継マシンの投入を迫られます。
そこで63年のプロトタイプモデルである250Pをベースに、量産モデルのGTカーとして1963年に誕生したマシンが250LMです。
しかし量産が思うように進まず結局32台の生産に留まり、100台というGTの年間生産義務が果たされていないとしてFIAからGT申請を却下されてしまい、250LMはプロトタイプとしてレースにエントリせざるを得なくなります。
そしてフェラーリワークスが275/330Pを使用する関係上、250LMは全てプライベートチームからの参戦となりましたが、1965年のル・マンではワークス・フェラーリが次々にリタイヤしていくなか、N.A.R.Tから参戦の250LM#21号車がフェラーリの窮地を救う総合優

勝を勝ち取る予想外の活躍を見せます。
さらに250LMはこのレースで#26号車が3位に、#27号車が6位に入る健闘を見せたのでした。
この勝利でフェラーリはル・マン6連勝及び9勝目を挙げましたが、現在(2018年4月)に至るまで、フェラーリのル・マンでの最後の総合優勝として記録に刻まれることとなります。

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1965 Le Mans 24H

1965 Le Mans 24H Result

racingsportscars.

https://www.racingsportscars.com/photo/Le_Mans-1965-06-20.html

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Ferrari 250 LM Result 1964-1970

https://www.racingsportscars.com/type/photo/Ferrari/250%20LM.html

1964 USRRC Augusta  8th #5149 Driven by: John Fulp  Entrant:?
1964 Tourist Trophy  2nd  #5897 Driven by: David Piper (GB) Entrant:David Piper (GB)
1964 Road America 500Miles  1st  #6047 Driven by: Walt Hansgen (USA)/Augie Pabst (USA) Entrant:John Mecom, Jr. (USA)
1964 Bridgehampton 500km  3rd  #5909 Driven by: Bob Grossman (USA) Entrant:Scuderia Bear (USA)
1964 GP Canada Mosport  7th  #5909 Driven by: Bob Grossman (USA) Entrant:Scuderia Bear (USA)

1965 Sebring 12Hours  11th  #6047 Driven by: Walt Hansgen (USA)/Mark Donohue (USA) Entrant:Mecom Racing Team (USA)
1965 Sebring 12Hours  3rd   #5897a Driven by: David Piper (GB)/Tony Maggs (ZA) Entrant:David Piper (Auto Racing) Ltd. (GB)
1965 Monza 1000km  10th  #6173 Driven by: Oddone Sigala (I)/Luigi Taramazzo (I) Entrant:Scuderia St. Ambroeus
1965 Targa Florio  8th   #6173 Driven by: Luigi Taramazzo (I)/Oddone Sigala (I) Entrant:Scuderia Sant Ambroeus (I)
1965 500km Spa  8th  #6313 Driven by: Jean-Claude Franck (B) Entrant:Georges Marquet (B)
1965 Nurburgring1000 km  16th  #5897a Driven by: David Piper (GB)/Tony Maggs (ZA) Entrant:David Piper (GB)
1965 Nurburgring1000 km  22nd  #6119 Driven by: Peter Ettmuller (CH)/Peter Harper (GB) Entrant:Scuderia Filipinetti (CH)

1965 Le Mans 24Hours  1st   #5893 Driven by: Jochen Rindt (A)/Masten Gregory (USA)/Ed Hugus (USA) Entrant:North American Racing Team (USA)
1965 Le Mans 24Hours  2nd   #6313 Driven by: Pierre Dumay (F)/Gustave Gosselin (B) Entrant:P. Dumay (B)
1965 Le Mans 24Hours  6th   #6119 Driven by: Dieter Spoerry (CH)/Armand Boller (CH) Entrant:Scuderia Filipinetti (CH)

1965 Road America 500Miles  7th   #5909 Driven by: Bob Grossman (USA)/Richard Holquist (USA) Entrant:Scuderia Bear (USA)
1965 Bridgehampton500km  8th   #5909 Driven by: Richard Holquist (USA) Entrant:Scuderia Bear (USA)
1965 Kyalami 9Hours  3rd  #6051 Driven by: Jackie Epstein (GB)/Paul Hawkins (AUS) Entrant:Epstein Enterprises Ltd. (GB)
1965 Kyalami 9Hours  6th  #5897a Driven by: John Love (RSR)/Mike Spence (GB) Entrant:David Piper Auto Racing Ltd. (GB)
1965 GP Angola  2nd #6119? Driven by: Herbert Muller (CH) Entrant:Scuderia Filipinetti (CH)
1965 GP Angola  3rd #5843 Driven by: Pierre Dumay (F) Entrant:Ecurie Francorchamps (B)
1965 GP Angola  4th #5907 Driven by: Victor Wilson (GB) Entrant:Bernard White (GB)

1966 Daytona 24Hours  9th #5893 250 LM #5893 Entrant:North American Racing Team (USA)
1966 Daytona 24Hours  13th #5895 Driven by: Mark Konig (GB)/Peter Clarke (GB)/Bob Hurt (USA) Entrant:Peter Clarke
1966 Daytona 24Hours  15th #5897a Driven by: David Piper (GB)/Richard Attwood (GB) Entrant:David Piper (GB)
1966 Spa 1000km  7th #6051 Driven by: Paul Hawkins (AUS)/Jackie Epstein (GB) Entrant:Epstein Enterprises Ltd. (GB)
1966 Spa 1000km  8th #5843 Driven by: Gustave Gosselin (B)/Eric de Keyn (B) Entrant:Ecurie Francorchamps (B)
1966 Nurburgring 1000km  9th #8165 Driven by: Willy Mairesse (B)/Herbert Muller (CH) Entrant:Scuderia Filipinetti (CH)
1966 Kyalami 9Hours  2nd #5895 Driven by: Peter Clarke (GB)/Rollo Fielding (GB) Entrant:P. Clarke (GB)

1967 Daytona 24Hours  21th #5895 Driven by: Peter Clarke (GB)/Edward Nelson (GB) Entrant: Peter Clarke (GB)
1967 Nurburgring 1000km  14th  #5905 Driven by: Heini Walter (CH)/Peter Ditzler (CH) Entrant:Heini Walter (CH)
1967 Brands Hatch 6Hours  18th   #6051 Driven by: David Prophet (GB)/Peter de Klerk (ZA) Entrant:David Prophet

1968 Daytona 24Hours  8th  #6107 Driven by: John Gunn (USA)/Guillermo Ortega (EC)/Fausto Merello (EC) Entrant:Raceco-Miami (USA)
1968 Brands Hatch 6Hours  5th  #8165 Driven by: Pedro Rodriguez (MEX)/Roy Pierpoint (GB) Entrant:David Piper (GB)
1968 Brands Hatch 6Hours  15th  #6167 Driven by: Roy Pike (USA)/Paul Vestey (GB) Entrant:Paul Vestey (GB)
1968 Monza 1000km  20th   #6167 Driven by: Paul Vestey (GB)/Paul Ridgway (GB) Entrant:Paul Vestey (GB)

1969 Le Mans 24Hours  8th  #5893 Driven by: Teodoro Zeccoli (I)/Sam Posey (USA)/Ricardo Rodriguez (USA) Entrant:North American Racing Team (USA)

1970 Daytona 24Hours  7th   #5893 Driven by: Gregg Young (USA)/Luigi Chinetti, Jr. (USA) Entrant:North American Racing Team (USA)

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