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--------- specification A1600S -------------------------------------------

https://nosweb.jp/articles/detail/1101

1972年式ALPINE RENAULT A110 1600S
全長 3850mm
全幅 1520mm
全高 1130mm
ホイールベース 2100mm
トレッド前/後 1311/1290mm
車両重量 680kg
乗員定員 2名
エンジン種類 水冷直列4気筒OHV
総排気量 1565cc
ボア×ストローク 77.0×84.0mm
圧縮比 10.25:1
最高出力 138ps/6000rpm
最大トルク 14.7kg-m/5000rpm
ステアリング ラック&ピニオン
サスペンション 前ダブルウィッシュボーンコイル
        後スウィングアクスルセミトレーリングアームコイル
ブレーキ 前後ともディスク
タイヤ 前後とも165HR13

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https://nosweb.jp/articles/detail/1099

若きジャン・レデレの目の前には、ルノー4CVがあった。
あなたにサニーやスターレットがあったように|アルピーヌ・ルノーA110 1600S 

Nosweb 編集部 2020/05/07
 
●1972年式ALPINE RENAULT A110 1600S

2008年にこの世を去ったアルピーヌの創始者ジャン・レデレ。彼がアルピーヌに託した思いをフランスのルノー研究家のひとり、ドミニク・パスカルはこう表現する――

「彼はフランスの自動車産業に再び高貴さと栄光をもたらしたかった。
国際レースに出場して勝つことのできる純フランス製のスポーツカーをフランスのモータリストに乗ってほしかった」のだと。

この思いは、当時国境を隔てた各地でスポーツカーを造ろうと夢見ていた若者たちにとっても、共通であったに違いない。たまたまコーリン・チャップマンの目の前にあったのがオースティン・セブンであり、カルロ・アバルトの目の前にあったのがフィアット600であり、フェリー・ポルシェの目の前にあったのが、VWビートルであっただけのこと。
そして若きジャン・レデレの目の前には、ルノー4CVがあった。

アルプスに育まれた愛すべきベルリネット

レデレの父親がルノー・ディーラーを営んでいたことは有名な話だが、若かりし頃はレースメカを務めた経験ももっていたという。つまりレデレには生まれながらにして “走り”のDNAが埋め込まれていたのだろう。

4CVを駆ってモンテカルロをはじめとする各地のラリーに出場し好成績を収めた彼は、より速く走るために、ジョバンニ・ミケロッティにデザインを依頼し、カロッツェリア・アレマーノが製作したアルミボディを載せた4CVスペシャルを製作。
それこそが今回紹介するアルピーヌA110の物理的、精神的ルーツとなるのである。

この4CVスペシャル以降、ジャン・レデレの製作するスポーツカーは、ルノーの小型サルーンと歩みを共にしていくことになる。
その歩みはルノーとともにレデレにとってアルピーヌの名を冠した初の量産モデルとなったのは、55年に発表されたA106ミッレミリア。

この4CVをベースとした2シータースポーツ最大の特徴は、パリ郊外のサン・モーにあったカロッツェリア、シャップ・フレールが製造したFRP製ボディにあった。
これにより軽量化とともに、自由なスタイリングを手にしたアルピーヌは、同時に自社ブランドのイメージ向上を図っていたルノーとの提携にも成功。
パーツ供給はもちろん、宣伝や販売網の協力を取り付けた。

そんなアルピーヌに最初の転機が訪れるのは60年のことだ。
56年に4CVの後継たる5CVドーフィンが、58年に“魔術師”アメデ・ゴルディーニがチューンを手がけたその高性能版であるドーフィン・ゴルディーニがリリースされるなど、年々進化していくにつれ、その受け皿となるシャシーの必要性を痛感。
独自に開発した丸形鋼管フレームによるバックボーン式シャシーを採用したA108ベルリネット・ツール・ド・フランスを世に問う事になる。

そして62年、5ベアリングの新世代4気筒OHVを搭載する最後のRRサルーン8(ユイット)が発表されたことで、アルピーヌ製ベルリネットもA110へと発展。
ここにA106から続いてきた一連のRRスポーツは一応の完成をみることになる。


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アルピーヌ創業者、ジャン・レデレ氏死去

https://www.webcg.net/articles/-/10000

2007.08.13 自動車ニュース


1960?70年代にラリーやルマン24時間レースで活躍した仏「Alpine(アルピーヌ)」の創設者ジャン・レデレ氏が、2007年8月10日、パリの自宅で死去した。85歳だった。

■国民に愛されたブランド
フランスのモータースポーツの一時代を築いたアルピーヌ。
その生みの親ジャン・レデレ氏が亡くなった。
死因は明らかにされていないが、長年闘病生活にあったという。

訃報は、フランスのモータースポーツファンを悲しませただけでない。
就任したばかりのフランソワ・フィヨン首相も「残念だ。彼はアルピーヌを作り、このクルマはルノーと共にラリーで名声を挙げ、フランスのモータースポーツの歴史に最も美しいページを刻んだ」と、哀悼の意を表したほど。
クルマに興味のない若いフランス人でも、このAマークを知らない人は稀だという。
それだけ、アルピーヌは国民に愛されたブランドと言える。

■WRCやルマンで活躍
1922年5月17日にフランスの北部ディエップに生まれたレデレは、ガレージを営んでいた父親の影響で幼少時代からクルマの世界に親しんできた。
ルノーで暫く働いた後、故郷でルノーの販売店を営むのと同時に、50年代初頭にはドライバーとしてルノー「4CV」で、モンテカルロやミッレ・ミリア、クップ・ド・アルプスなどのレースに参戦。
マシンのチューニングや改良に没頭していった。

そして、1955年、彼は「山道をドライビングする楽しさ」という想いを企業名に込めた「Alpine(アルピーヌ)」を設立。
4CVをベースにした「A106」を発表した。1962年には、アルピーヌの代表的モデル「A110」を、その10年後には「A310」をデビューさせた。

レース活動では、1965年にルノーと提携。
1971年にモンテカルロラリーで初優勝、1973年にはWRC(ラリー世界選手権)の初代コンストラクターズチャンピオンに輝いた。
しかし同年、経営難に陥ったために、ルノーに買収されて、同社のモータースポーツ部門として再スタート。
その活躍はラリーだけに限らず、1978年には「アルピーヌA442」がルマン24時間レースで初優勝を遂げた。

■復活の矢先に……
ルノーの傘下に入った後も、そして、レデレが1978年に企業を離れた後も、「5アルピーヌ」や「アルピーヌA610」と、その名称は受け継がれていた。
が、「A610」を最後に、1995年、アルピーヌのマークは消滅してしまった。
しかし、日本でもアルピーヌの熱狂的なファンが多く、欧州でも元F1ドライバーのエリック・コマスを筆頭に、「A110」でクラシックカーレースに参加するグループも少なくない。
その人気は色褪せることなく、コレクターズアイテムの1つに挙げられる。

一方、創設者の故郷ディエップにあったアルピーヌの工場は、1976年に誕生したルノースポール(Renault Sport)が、アルピーヌモデルをサポートするために早くから引き継いだ。
そして、現在でも「クリオV6」「クリオRS」「メガーヌ II RS」などルノーのスポーツモデルを生産する。

ルノーでは、2年連続(05/06年)コンストラクターズタイトルを手にしたF1をはじめとするモータースポーツと、トゥインゴやルーテシア(仏名クリオ)に代表される大衆車メーカーという、対極にあるイメージの間を繋げる位置付けとして、アルピーヌマークを

復活させる計画がある。
ルノーのカルロス・ゴーンCEOも「現在開発中のスポーツバージョンモデルにアルピーヌ名を付けることを考えている」と今年5月に発言したばかりだ。

創設者の死は、その伝説のブランドが蘇ろうとする矢先の訃報だった。
ご冥福をお祈りいたします。

(文=野口友莉/YUYU、写真=ルノー/ヨシ・オオモリ)

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自動車技術&文化史探訪

ルノーと共に歩みスポーツカーに挑み続けたジャン・レデレ──人とクルマ
2017年のジュネーブ・ショーで発表され、翌2018年には日本上陸を果たした新生アルピーヌの新型A110。
この稿では、そのアルピーヌの創始者であるジャン・レデレ(1922〜2007年)の人物像、そしてA110のルーツであるA106誕生当時、そして同社のル・マン挑戦に焦点を当ててみることにした。

1951年モンテカルロ・ラリーでは、レデレはルノー4CVをドライブし、44位でフィニッシュを果たした。

ルノー4CVから始まった

優れた小型大衆車から、これまた優れたスポーツカーが誕生。
同時にモータースポーツの裾野を広げてきたと、カー・マガジン誌の連載では何度も記してきた。
第二次大戦後のフランスでは、正しくそれはルノー4CVだ。
ルノーのフェルナン・ピカール技師らは、戦中から平和の時代が訪れた時のために、小型大衆車の設計を進めていたことで、早くも1946年秋のパリ・サロンでのデビューを果たし、1年後には発売に漕ぎつけている。

4CVは、疲弊した経済状況の中で庶民の足として登場した安価な小型大衆車だったが、機構面では安易な妥協を一切していなかった。
4ドアの軽量なモノコックボディに組み付けたサスペンションは、フロントがウィッシュボーン/コイル式、リアがコイルスプリングによるスウィングアクスルの4輪独立式だった。
ステアリングはラック&ピニオン式であった。
そのリアエンドに配置した水冷4気筒OHVエンジンは、当初760cc(55×80mm)で、圧縮比6.7から19ps/4000r.p.m.を発生。
強いていえば、トランスミッションが3速なことだけが多少の不満な箇所であった。
1951年には排気量を747ccに縮小しているが、これはモータースポーツに出場する場合に750cc以下クラスに入るためというのは、モータースポーツ発祥の国ならではの英断ではなかろうか。

戦前には、華麗なスタイリングをまとった高性能車の宝庫だったフランスは、国土が戦場になったことで受けた戦禍と、ひどい戦後不況によって、自動車産業全体が見る影もないほど沈滞していた。
さらに福祉財源を得るためとして、政府が課税馬力15CV以上の大排気量車に対して高額の税金を課したことも大きな要因となって老舗メーカーが衰退。
また、小型のスポーツカー・メーカーも休業状態で、エンスージァストにとってはスポーツカーの飢餓状態にあった。

そこに登場したルノー4CVは、すべてのフランス人にとって朗報であったことだろう。
安価な乗用車であったが、高度なメカニズムを備えていたことから、スポーティなドライビングを楽しむことも可能で、さらに腕に覚えのあるチューナーにとっては絶好の素材と化したからである。
事実、それをベースとしてスポーティなスペシャルが誕生していった。
そうした試みのなかで量産(というほどの規模ではないが)に進んだメイクに、オトブル、ブリッソンノー・エ・ロッツ、そしてアルピーヌがあった。

この中で大成功したのは、ディエップでルノーのディーラーを営んでいたジャン・レデレが手掛けたアルピーヌだった。
彼の父親もまた、戦前にルノーの販売店を営んでいたが、戦争によって会社施設は破壊され、さらに会社自体もドイツ軍によって接収されたため、失意のうちに廃業し引退を余儀なくされた。
大学で経済を学んでいたレデレは、学資を稼ぐため、終戦間もない1946年末にたったひとりでクルマの販売をはじめ、ルノーを扱い始めた。
といっても、クルマ不足に悩むフランスでは、そう簡単に供給が需要に追いつくものではなかった。
そこでレデレは、軍が放出したジープやトラックなど軍用車の中古やスクラップを買い入れて修理(再生)して販売するというビジネスに着目した。
この仕事のため、社用車の4CVでフランスをくまなく走りまわることになり、4CVを熟知していった。
軍用車再生ビジネスで大きな収益を上げ、さらにルノーの販売も軌道に乗りはじめると、父親の会社があった場所を買い戻して、自社を構えるまでに成長を果たした。

ミッレミリアでイタリアン・コネクション

彼がモータースポーツに足を踏み入れたのは1950年のことで、最初のクルマは社用車のルノー4CVであった。
レース出場も回を重ねるにつれ、その戦闘力を向上させるため各部に手を入れ続け、やがて彼の頭の中には4CVをベースにした小型スポーツカーの構想が膨らんでいった。
その構想は4CVスペシャルとして具体化を図り、1952年には具体化している。

レデレは、モンテカルロやアルペン・ラリーなど長距離イベントに参戦しているが、そのキャリアで最も成功を収めたのはミッレミリアであった。
1952年には4CVをドライブしてスポーツカテゴリー750cc以下でクラス優勝を果たしたのを皮切りに、翌53年にはスポーツシリーズ750cc以下クラスで優勝。
54年にはスペシャル・ツーリング750cc以下クラスで優勝を果たしている。
さらに55年には、4CVをベースにしたスペシャルを持ち込んでいる。
それは、イタリアのジョヴァンニ・ミケロッティがスタイリングを担当し、カロッツェリア・アレマーノがベルリネッタ・ボディを架装した2座クーペで、レデレたちはこれでミッレミリアに出場。
彼の盟友であるガルティエがクラス1位を果たし、レデレも2位という好成績を収めた。
このころ、レデレはパリで大きなルノー・ディーラーを経営するシャルル・エスコフィーの娘と結婚している。
これによってエスコフィーからの援助のほか、ルノーとの結び付きが強化されたと見るむきもある。

ルノーあってこそ

その1955年には、ミッレミリアで実績を積んだ4CVスペシャルの製品化に駒を進めるべく、自らが魅了されたアルプスの山道に因んで命名したというアルピーヌ社を設立すると、初の独自モデルとなるA106ミッレミリアを同年のパリ・サロンでデビューさせた。

A106はミッレミリアで成功を収めた4CVスペシャルの発展型で、生産化に当たってはアレマーノのオリジナルであるアルミ板金製ボディから、スタイリングを変更するとともに、材質をFRPとしている。
この時期、FRP製ボディはまだめずらしかったが、レデレはその軽量さと強靱さ、そして、いったんモールドを製作してしまえば後の生産が比較的容易なこと、均一な品質が得られること、また大きな投資が必要でないという美点に着目し、かねてから強い関心を抱いていたとされている。
だが、まだまだFRPは高価であり、大型製品への採用例も少なかった。
1953年にFRP製オープンボディを採用したシボレー・コルべットが量販車としては先駆だが、あとはバックヤード・スペシャル程度の生産規模に限られており、アルピーヌ用のFPR素材も、当時その分野では世界をリードしていた米国から入手している。
余談ながら、コルべットはFRP製のオープンボディとしては先駆者だが、クローズドボディの生産車ではA106が初採用ということになる。

生産初期には750ccユニットを搭載し、エンジンのチューニング程度により、ノルマル、ミッレミリア、後にスペシャルを追加している。
前述したようにこの時期のフランスはスポーツカーの飢餓状態にあったから、アルピーヌの登場はそうした人々にとって朗報以外のなにものでもなかった。
1958年にはカブリオレと、ルノー・ドーフィンをベースにした新モデルのA108を追加するなど、バリエーションの拡充を図っている。

レデレは当初から、ルノーとの関係を重視して行動し、自らがメーカーになるに当たって、ルノーのエンジンやトランスミッション、サスペンションなど多くのコンポーネンツを最大限に使用している。
もちろんそれが安価で安定的に入手でき、信頼に足るコンポーネンツであったことは事実だが、販売や整備などで、顧客がルノーのネットワークが活用できるという利点が大きい。そしてアルピーヌは成功への道を進み、また、ルノーにとっても、スポーティなイ

メージの向上に役立つことになった。
さらに加えれば、1962年頃からルノーが生産工場を持つ海外でのアルピーヌのライセンス生産を開始している。
スペイン、ブルガリア、メキシコ、ブラジルなどで、アルピーヌの現地生産が行われている。

ル・マン制覇を目指す

ルノーとの関係は、またル・マンに代表されるスポーツカーレースに向けられた。
順調に成長していったアルピーヌではあったが、同じクラスにはパナールをベースとしたDBがあり、レースで培ったイメージではDBが有利だった。
さらにレデレにとって困ったことに、1961年末にはDBのふたり、ドゥーチェとボネが反目から離別を選び、ボネはアルピーヌと同じルノー製エンジンをミッドシップに搭載する市販車、ルネ・ボネ・ジェットを完成させたことだった。
そのころアルピーヌは、A108の後継モデルとして、A110を開発中だった。
彼らにとって先進的なルネ・ボネ・ジェットは気になる存在であるばかりか、これによって、長年にわたるルノーとの独占的関係が損なわれた事象でもあった。
さらに追い打ちを掛けるように、ルノーは傘下のゴルディーニに開発を任せた、ル・マン用ツインカム・エンジンをボネに貸与することを決定した。
怒り心頭のレデレはルノーに対して強い申し入れを行い、そのゴルディーニ・エンジンを手に入れることに成功すると、1963年ル・マンに向けて、マシンの開発に着手した。

レデレは理想を追うことはせず、成功のためには現実を理解して計画を進めていく主義であり、ル・マンでのクラス優勝を目指して、実績のある方法を採ることにした。
それが、ロータスのコーリン・チャップマンからの助力を得ることだった。
シャシーはロータス23に倣うことを決めると、フランス人ジャナーリストでチャップマンとは懇意のジャビー・クロンバックに仲介を依頼した。
レデレの構想は、ロータス23の”クローン”シャシーにルノー製エンジンを搭載し、空力的なクーペボディを架装したようなマシンだった。

実はレデレがロータス23の存在に注目したのは、デビュー戦となったニュルブルクリンク1000kmでのその速さと、1962年のル・マン・テストデイでのことあった。
ル・マンから遠ざかっていたチャプマンは、1962年にル・マン復帰を決めると2台のロータス23を送り込んできた。
1台はロータス・フォード1.5リッターエンジン搭載車、もう1台は排気量を1000ccに縮小し、熱効率指数賞を奪取することを目的としていた。
もともと小排気量車しか持たないフランス勢にとっては、熱効率指数賞や性能指数賞の取得が目標であったから、ロータス23の存在は脅威(邪魔)以外の何ものでもなかった。
だが、”耐久レースでもかなり特殊な部類に入る”といわれ、フランス勢に荷担したかのようなル・マンの出場規定がロータスの前に立ちはだかり、チャプマンは23の出走を断念した。

アルピーヌのル・マン・カー計画では、ロータス・チーフエンジニアのレン・テリーが牽引する体勢となり、スポーティングディレクターにジョゼ・ロジンスキー(1963年の日本グランプリでアストンマーティンDB4GTZをドライブしたジャーナリスト)と、技術部門の責任者にはベルナール・ボワイエというフランス勢が加わり進められることになった。
だが、1962年秋、ル・マン・オーガナイザーのACOは、車両規定を大きく変更したことで、進行中だった『M63』はマシンの構造を見直さなければならなくなったその後、フランス勢と英国勢との着想の違いから計画は二転三転してテリーが離脱。
アルピーヌのリシャール・ブーローが設計したバックボーン構造フレームに、マルセル・ユベールがデザインした空力的なマシンが完成した。

1963年ル・マンでのM63はゴルディーニ製996ccエンジンを搭載して熱効率指数賞の獲得を狙ったが、23時間目の227周目にコンロッドを破損してリタイアに終わり、同賞は1108ccのゴルディーニ・エンジンを搭載した宿敵、ルネ・ボネ・エアロジェットLM6に浚われた。

1964年には、M63の改良型でテリー流(すなわちロータス流)の鋼管スペースシャシーを用いたM64が総合17位、1001〜1150ccクラス優勝を果たし、念願の熱効率指数賞を奪取。
これ以降、アルピーヌはル・マンで好成績を挙げる常連となった。
66年にはA210で総合9位、クラス優勝。
67年にもA210で総合9位、クラス優勝を果たしている。

アルピーヌがル・マンでの総合優勝を意識したのは、レギュレーションが変わり、レーシング・プロトタイプが3リッター以下になったときだ。
ゴルディーニが3リッターのV8エンジンを新開発。
A210をベースとしたにシャシーに搭載し、A220と呼ばれるマシンが完成した。
1968年のル・マンには4台が投入され、1台が総合8位(優勝車のフォードGT40から34周遅れ)でフィニッシュしている。
さらにA210が9位から11位と14位に入って、A210がクラス優勝のほか熱効率指数賞と性能指数賞を浚った。
振り返ってみると、これがアルピーヌにとって、前期黄金期の頂点といえるだろう。
翌69年にはA220は完走を果たせず、A210で総合12位、クラス優勝のほか性能指数賞を得ただけだった。

1972年には、新たな宿敵となっていたマトラ・シムカがMS670で、フランス車としては1950年のタルボ・ラーゴ以降ずっと途絶えていたル・マン総合優勝を果たし、その後、73年、74年と3連勝。
戦闘力のあるマシンを持たないアルピーヌは面目を失った。

その後1978年、1997ccV6ターボを搭載したグループ6マシンのA442Bによって、1963年の初挑戦から15年目にして、アルピーヌは宿願であったル・マン総合優勝を果たすのである。

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https://www.gqjapan.jp/car/news/20180903/what-is-alpine

“アルピーヌ”ってなに?──今さら聞けないアルピーヌの歴史を解説!

往年の名作A110が復活を遂げ、にわかに注目が集まる「アルピーヌ」。
しかし、アルピーヌというブランドの本質やヒストリーを知る人は、今や決して多くないだろう。
そこで、アルピーヌの歴史を武田公実が解説する。 文・武田公実

創業から名作A110の成功に至るまで

第2次世界大戦前のフランスは「ブガッティ」を筆頭に、「アミルカー」や「サルムソン」、「ラリー」に「BNC」など、きら星のごとく個性的で魅力的な軽量級スポーツカーの宝庫だった。
ところが戦後、それらメイクスのほとんどが消滅するかスポーツカー製造からの撤退を余儀なくされ、フランスからスポーツカーの灯は途絶えてしまったかのようであった。

そんななか、南仏の地方都市・ディエップのルノー販売代理店を父親から引き継いだばかりの若きディーラーのオーナーであったジャン・レデレが、ルノー「4CV」用のコンポーネンツを流用した小さなスポーツカー「アルピーヌ」を製作、自らそれをドライヴして、イタリアのミッレ・ミリアに挑戦し始めたのは1955年のことだった。

そこで予想以上の好成績を収めたアルピーヌは、同じ1955年「ソシエテ・デ・オートモビル・アルピーヌ」社を設立、ルノーとの関係を構築し、巨大な後ろ盾を獲得するにいたる。
戦後フランス随一のスポーツカーブランドとして、栄光の歴史を歩み始めることになったのだった。

ルノーの主力機種が4CVからドーフィン、そして革新的なRR小型車「R8」へと切り替わるに従い、アルピーヌの始祖「A106ミッレ・ミリア」は、ドーフィンをベースとする「A108」へと進化、さらにA106の最速版「トゥール・ド・フランス」から発展し、A108で初採用した自社製バックボーンフレームにR8のコンポーネントを組み合わせた運命のモデル、「A110」シリーズが1962年秋のパリ・サロンにてデビューすることになった。

アルピーヌの栄枯盛衰、そして復活

1960年代のアルピーヌとゴルディーニは、「ル・マン24時間レース」をはじめとするスポーツカーレースにも参戦した。
ロータスのレン・テリー技師の助力で開発した「M63」と、その発展型である「A210」シリーズを擁してル・マンに挑戦。
小排気量クラス、および性能指数賞/熱効率賞では毎年上位を占めた。
また1970年代後半は、ターボチャージャーを搭載した「A442/A443」シリーズでル・マンに参戦。
1978年には、念願のル・マン総合優勝を果たし、当時、最先端技術であるターボの旗手と目された。

一方1970年代は、石油ショックや公害問題、あるいは受動安全対策の影響で、市販ピュアスポーツカーにとっては「冬の時代」とも言われた。
とくに、1973年をもってアルピーヌが100%ルノー傘下に収まったあとは、状況が変わっていく。イギリスのロータスが2代目エリートやエスプリで高級GT的指向性を模索したのと同じく、アルピーヌもスパルタンなリアルスポーツであるA110より、洗練した2+2のGTへの脱皮を目指し、71年には「A310」を市場に投入した。

そして1984年、A310の後継車となる新型車「V6GT/ターボ(ヨーロッパ市場はGTA名)」が登場した。V6ターボは日本にも正規輸入され、ポルシェ 911の数少ないライバルとして一定の評価を受けた。

だが、1991年登場の後継車「A610」はパワーアップとともにV6GT/ターボの弱点であった信頼性が大幅に向上したものの、人気は振わなかった。
この結果、1995年をもってA610の生産は終了。
同時に「アルピーヌ」ブランドも長い休眠期間に入ることを余儀なくされた。

20年弱の長い休眠期間を経て、新生A110を引っ提げて再登場したアルピーヌ。
しかも、オリジナルA110の生産拠点でもあった開祖の地、ディエップで蘇ったのだ。
それは、フランス製スポーツカーの復権を目論むアルピーヌの、群雄割拠の現代スポーツカー界に挑む意地と本気のあらわれだった。
アルピーヌはかつてと同様、決してルノーの“スポーツバージョン”に留まらない、れっきとしたひとつのスポーツカーブランドなのだ。


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https://alpinecars-nagoyamidori.jp/brand/


ALPINE
アルピーヌ名古屋緑

アルピーヌについて
ラリードライバーであったジャン・レデレの手により、レースカー・アルピーヌは産声をあげました。
1950年代半ばにフランスのアルペンラリー「クープデザルプ」やイタリアの「ミッレミリア」等のラリーレースへ参戦するようになり、1963年以降はル・マン24時間レースをはじめとする耐久レースの世界にも登場します。
フランス生まれの小さなアルピーヌは、この頃からレース界のビッグスリー(ポルシェ/フォード/フェラーリ)と肩を並べてレースの主導権争いを始めるようになり、次第にその存在感を増していきます。
アルピーヌの伝説は、ル・マン24時間のサルト・サーキットで育まれていったのです。

1964−1972
フランスF3クラス・優勝:3回以上/欧州・優勝:1回と輝かしい成績を残したアルピーヌは、全てのカテゴリー(シングルシーターカー/ラリーカー/プロトタイプカー)でタイトルを獲得した世界初のブランドとなりました。

1971
この年に初めて開催されたニュルブルクリンク96時間レースへの参戦は見送るとの発表が、ルノー・レーシングチームより出されました。
するとルノーのドライバーであったジャン=リュック・テリエは「何がなんでもこの世紀のレースに出たい!」と一念発起。
アルピーヌA110を個人で借り受けるという形で参戦を表明します。
このテリエの熱い想いに心を打たれた2人のドライバー、ジャック・アンリとモーリス・ヌスバウマーも参戦を表明、彼らは3人でこの過酷なレースへ挑戦することを決めたのです。
すると今度はアルピーヌのエンジニアたちも後に続きます。
彼らは各々の仕事を休んでまで3人のサポートを買って出ました。

1973
 FIA世界ラリー選手権 第1回大会での優勝に自信を深めたアルピーヌは、長時間耐久レース、とりわけル・マンの優勝に照準を定め、フランスのディエップ工場にてV6ターボエンジンの性能強化が進められました。

2013
伝説のル・マン’78から35年。アルピーヌは再び動き出しました。シニャテック社と契約を結び、FIA世界耐久選手権「LMP2クラス」への参戦が決定したのです。
チームを率いるフィリップ・シノーの下に、ピエール・ラグ/ネルソン・パンチアティシ/トリスタン・ゴメンディ/ポール=ルー・シャタンという優秀なドライバーが集まりました。

2013−2014
アルピーヌA450はヨーロッパで連覇を成し遂げ、その高い性能が現代にも通用するということを改めて証明しました。
また、ル・マン24時間レースではピットクルーのパフォーマンスが賞を受け、アルピーヌのチームスピリットにも注目が集まっています。


2015
上海6時間レースにアルピーヌA450Bで出場したパンチアティシ/シャタン/ディルマン組が優勝。ル・マンではアルピーヌの60周年を記念して作られたアルピーヌ セレブレーションが披露され、市販化を切望する声が巻き起こりました。

 

--------------------Wikipedia------------------------------------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8C

アルピーヌ

アルピーヌ(Alpine)は、フランスの自動車会社。1973年にルノーに株式を買収され、ルノー社の100%子会社。
2012年現在の正式名は「ソシエテ・デ・オートモビル・アルピーヌ・ルノー」。
パリで設立されたアルピーヌ社だが、1969年にフランス北西部の大西洋に面した町「ディエップ」に移転、現在でも同じ場所で生産が続けられている。

設立

1956年にフランスのレーシングドライバーで、ルノーのディーラーを経営するジャン・レデレが設立した。
当初よりルノーのチューンナップおよびレースバージョンを数多く手がけ、ルノー4CVをベースにFRPボディをのせたA106を販売する。
その後ドフィーヌをベースとしたA108,R8をベースとしたA110を販売、特にA110はラリーで活躍してアルピーヌの名前を不動のものとした。
また、ル・マン24時間レースなどのモータースポーツで大活躍した。


アルピーヌ・ルノー

1973年にレデレ家からルノーに株式を譲渡、ルノー傘下の会社となった。
正式名は「ソシエテ・デ・オートモビル・アルピーヌ・ルノー」である。
1973年当時はディエップ工場でA110およびA310を製造しており、その後A310V6、V6GT、V6ターボ、A610を生産した。
またルノーのスポーツモデルや競技車両の生産も行い、またそれらへの部品供給もアルピーヌ社が担当した。

1995年のA610生産終了を以てアルピーヌのブランドは一旦途絶えたがアルピーヌ社とディエップ工場は存続し、ルノースポールブランドの第一弾となったスピダーを皮切りに、クリオ2 RS、クリオV6、メガーヌ2 RS、クリオ3 RSの製造を担当した。
但し全てのルノースポールモデルの製造を行ったわけではなく、トゥインゴ2 RSはスロベニア、メガーヌ3 RSはバレンシアで製造された。

2001年にルノーの会長にカルロス・ゴーンが就任して以降は、同氏が推し進める車種拡大にあわせてアルピーヌのブランド復活が期待された。
2007年10月9日は2010年を目処にアルピーヌブランドを復活させることが公式に発表された。
実際には2010年はパリ・モーターショーでDeZirという名前の電気自動車のコンセプトカーが発表されるに留まったが、そのコンセプトはルノーがスポーツカー専用モデルの復活を目論んでいることを予感させた。

そして様々な憶測が流れる中、2012年のモナコGPでコンセプトカーのアルピーヌA110-50が登場する。
同車はA110の50周年を記念するモデルと説明されたが、そのスタイリングはDeZirを踏襲するもので、またミドシップに日産・VQ35エンジンを積み、メガーヌRSのレース仕様のシャシを流用し、カーボンファイバーの車体を組み合わせるなど、小型軽量だったA110に対してスーパースポーツと呼ぶに相応しい内容だった。
A110-50は同年の各種イベントに登場、またルノーと関わりの深いラリードライバーであるジャン・ラニョッティがA110-50をドライブし、A110と共演するイメージ映像も製作された。

レース活動

1960年代初頭からさまざまなレースに参加。A110は1973年に初代WRCマニファクチャラー・チャンピオンの栄誉に輝いた。

またスポーツカーレースでは、ルノーアルピーヌとして、ルノー・アルピーヌ・A442(英語版)で1978年のルマン24時間レースで総合優勝している。

近年はオレカの制作したシャシー、オレカ05のOEM供給を受け、「アルピーヌA460」とリバッジしてFIA 世界耐久選手権(WEC)のLMP2クラスに参戦。オペレーションはフランス系チームのシグナテックで、2台目はジャッキー・チェンのレーシングチームとのジョイントという形を取った。

2016年に1台目がル・マン24時間クラス優勝、WECのチャンピオンを獲得している。
2018-19年シーズンもアルピーヌ・A470で参戦し2年連続のル・マン24時間LMP2クラス優勝を果たし、同時に2年ぶりとなるドライバーズ、チームチャンピオンを獲得した。

2021年からは、従来のルノーF1チームが名称を変え「アルピーヌF1チーム」として活動する。

またWECにおいては、2021年に限りハイパーカークラスに従来のLMP1(ノンハイブリッド)車両がエントリーできることを活かし、従来レベリオン・レーシングが走らせていたマシン、R13を引き継ぎ、「アルピーヌ・A480」として最高峰クラスのハイパーカークラスに参戦する。  

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